「すべての道はローマに通ず」という言い回しは、比喩ではなく交通網の話でした。地中海のほぼ全周をひとつの国が囲み、道と水道と都市を張りめぐらせた時代——その現物は、意外なほどそのまま残っています。このページは「ローマ帝国」という物語を、いま実際に行って立てる場所でたどります。各章の下のカードから、その現場へ行くための記事に進めます。
あらすじ
- イタリアの都市国家が、共和政の始まりから西の帝国の終わりまでのおよそ千年で、地中海を「我らの海」と呼ぶまでに広がった。
- 属州の都タラゴナ、中枢のコロッセオとフォロ・ロマーノ、そして2000年近く屋根が落ちていないパンテオン——現場はいまも歩いて入れる。
- 帝国が滅びたあとも、道と都市と言葉はヨーロッパの骨格として残った。
① 海を囲んだ国
紀元前218年、カルタゴの名将ハンニバルが象を連れてアルプスを越え、イタリアに攻め込みました。ローマは本国で戦いながら、敵の背後を突くためにイベリア半島へ軍を送ります。スキピオ兄弟が上陸した港が、のちのタラコ——いまのタラゴナです。この遠征は防衛のはずでしたが、勝ってみると半島がローマのものになっていました。以後この繰り返しで、地中海の周りが一つずつ「属州」になっていきます。
タラゴナが面白いのは、首都ではなく属州の都だという点です。円形闘技場、城壁、街の外の水道橋——「地方都市ですらこれだけ造った」という規模感は、帝国の厚みをローマ市内より雄弁に語ります。バルセロナから列車で1時間の距離です。
② 中枢に立つ
紀元80年、皇帝ティトゥスが5万人収容の円形闘技場を100日間の催しで開きました。コロッセオです。隣のフォロ・ロマーノは、共和政の頃から元老院と裁判と凱旋式が行われた政治の中心でした。つまりこの一角は「帝国の霞が関と国立競技場が隣り合っている」ような場所で、2000年前の権力の配置が歩いてわかります。
コロッセオが欠けているのは、地震のせいだけではありません。中世以降、切り出し済みの石材の山として教会や宮殿の建材に使われ続けたからです。「壊された」のではなく「使われた」——ローマの廃墟の多くは、そうやって次の時代の建物の中に生きています。
③ 2000年もった屋根
ローマの建物のほとんどは屋根を失いましたが、ひとつだけ例外があります。ハドリアヌス帝が126年頃に再建したパンテオンは、無筋コンクリートのドームとしていまも世界最大級で、頂上の開口から雨も光もそのまま落ちてきます。生き残れた理由は単純で、609年に教会へ転用されたからです。信仰の建物になったものだけが、石切り場にされずに済みました。
④ 北の果て
帝国の北の国境は、おおよそライン川とドナウ川でした。ライン川沿いの軍団基地から育った街のひとつが、紀元50年に「コロニア(植民市)」へ昇格します。この地で生まれた皇后アグリッピナが、夫のクラウディウス帝に働きかけた結果でした。街の名はコロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシウム——長い名前は削れて、いまの「ケルン」になりました。ケルン大聖堂が建つ一角は、ローマ時代から街の中心だった場所です。
海の向こうのブリタンニアには、紀元43年の遠征のあと、テムズ川のほとりに橋と市場の街ロンディニウム(47年頃〜)が生まれました。大英博物館のブリテン島の展示には、この「ローマ時代のロンドン」の出土品が並んでいます。ヨーロッパの主要都市のかなりの数が、ローマの軍団基地か植民市から始まっています。
⑤ 滅びたあとに残ったもの
476年、西の帝国は終わります。けれど旅先で出会うヨーロッパの骨格は、かなりの部分がローマの遺産です。話されている言葉——ポルトガル語、スペイン語、フランス語、イタリア語——は属州のラテン語が訛って分かれたもの。都市の位置と街道は、いまの幹線道路や鉄道の下敷きになりました。そしてトレドのように、帝国のあとを継いだ西ゴート王国の都から中世へ続いていく街もあります。
この物語の続きは、実はこのサイトの別の物語です。ローマが残した「地中海世界」の枠組みの中でイスラムとキリスト教が交差し、その最西端のポルトガルから大航海時代が始まります。歴史はどこかで終わって次が始まるのではなく、同じ場所の上に積み重なっていきます。
この物語の現場に立つ
中枢に立つならローマ2泊の回り方、属州の規模感を体感するならタラゴナ日帰り。北の果てはケルンとロンドンで。続きの物語は大航海時代へ。ほかの時代は歴史コーナーのトップから探せます。
年代・人名の出典は、各出来事カードの「出典」リンクから確認できます。
